おもしろき 
    こともなき世に 
          おもしろく
東行庵
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下関市産業経済部観光課
1866(慶応2)年10月、小倉落城以来悪化してきた結核の療養のため、晋作は桜山の麓の家に転居した。
ここで晋作は『桜山七絶』と題する詩を作っている。

   落花斜日恨無窮   落花 日斜めにして 恨窮まりなし
                   
   自愧残骸泣晩風   自ら愧づ 残骸 晩風に泣くを
                            *
   休怪移家華表下   怪しむを休めよ家を華表の下に移せしを

   
暮朝欲払廟前紅   暮朝 廟前の紅を払わんと欲す
                      (華表…鳥居のこと)
病魔は確実に晋作の体を蝕んでいった。
この頃の晋作は詩や句を作り、竹の絵を書いて日々を送ったと言う。

桜山神社
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下関市教育委員会指導課

桜山神社招魂場
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下関市教育委員会指導課
翌、1867(慶応3)年4月13日深夜、晋作は下関の商人、林算九郎邸離れでその29歳の生涯を閉じた。
満27年と8ヶ月だった。
葬儀は神式により16日に執り行われ、遺言により吉田の清水山に埋葬された。
長州におけるあらゆる儀式の中で空前の盛儀であった(司馬遼太郎 「世に棲む日々」)と言う。






   
   ― 己惚れて 世は済みにけり 歳の暮 ―
                            慶応2年暮
 

 

東行墓
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