上海


実上海之地雖属支那、謂英仏属地、又可也

―実に上海の地は支那に属すると雖も、
       英仏の属地と謂ふも、又可なり。―
                  上海掩留日録
                    しょうじん
1862(文久2)年4月27日幕府の小人目付・犬塚謗O郎の従者として幕船千歳丸に乗り込んだ晋作は
5月6日、初めて上海の地に下り立ち、そこで欧米諸国の半植民地と化した上海の現実を目の当たりにする。
晋作はこの時の見聞を航海日録・上海掩留日録等からなる『遊清五録』に書留ています。
この中には病身(麻疹)を押し杖を付いて波止場に到った事や船内の様子、船の位置・風向等の航海記録、
上海滞留中の見聞録や筆談等が細かく記され、説明文を添えて描かれたアームストロング砲の図には
晋作の関心の強さが窺がえます。
 
―貴邦尭舜以来堂々正気之国、而至近世区々西洋夷蛮夷之所猖獗則何乎

  
(貴邦は尭舜以来堂々正気の国なり。而るに近世に至りて、区々たる西洋夷蛮夷の猖獗する所は、則ち何ぞや。)―

                                
貴邦
―国運陵替、君臣之不得其道故也、君臣得其道、何有国運陵替、近世之衰微、自為災而已矣豈謂之天命乎

  
(国運の陵替するは、、君臣の其の道を得ざるが故なり。君臣其の道を得れば、何ぞ国運の陵替あらんや。
   貴邦
    の近世の衰微は、自ら災ひを為すのみ、豈に之を天命と謂はんや。)―


―支那兵術不能及西洋銃隊之強堅可知也

  
(支那の兵術は西洋の銃隊の強堅に及ぶこと能はざるを知るべきなり。)―


列強の支配にあえぐ上海の実態は晋作の祖国に対する大きな危機感となり、彼のその後の運命を決定付ける事となります。

この後、上海から帰国した晋作は蒸気船一隻を独断でオランダに注文しています。
これは結果的には実現しませんでしたが、この時の事を晋作はこう記しています。

―かくの如く衰微せしは何故ぞと看考仕候に、必竟彼れ外夷を海外に防ぐ之道を知らざるに出し事に候。
  其証拠には、万里之海濤を凌ぐの軍艦運用船、敵を数十里之外に防ぐの大砲等も制造成さず、
                            いたずら  固陋之説を        こうしょ

  
彼邦志士之訳せし海国図志なども絶板にし、徒に 僻気象を以 唱へ、因循苟且、空しく歳月を送り、
  断然太平之心を改め、軍艦大砲制造し、敵を敵地に防ぐの大策無き故、かくの如き衰微に至り候事也。

 それ
  夫故、我日本にも已に覆軼を蹈むの兆有れば、速に蒸気船の如き―



もはや一刻の猶予もならぬほど晋作の危機感は深刻だったのでしょう。


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