放れ牛
高杉晋作生家
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晋作初湯の井戸
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高杉晋作は1839(天宝10)年8月20日、萩の菊屋横丁に萩藩士、高杉小忠太・道子の長男として生まれる。
晋作には竹子・栄子・光子という妹がいたが、一人息子で元来あまり丈夫でなかったこともあり、”比較的制約をうけないで伸びていった”(奈良本辰也氏)という。
10歳の時に疱瘡を患っているがこの時、殆ど寝ずに看病をしたのは祖母であったといい、祖父・又兵衛、父・小忠太は極めて保守的な人であったという。
この様な家庭環境の下で少年・晋作は育っていった。

少年時代の晋作は勉学よりも剣術の方に打ちこんでいたようだが、明倫館に通うようになり、ようやく学問にも熱を入れ始め、19歳の時かの松下村塾で運命の人・吉田松陰に出会う。
以来、晋作は久坂玄瑞と共に”村塾の双璧”と称され、松陰の死後その遺志を継ぎ幕末の嵐の中へその身を投じて行く。

当時の晋作を
松陰は”有識の士”と呼び、
吉田稔麿は
坊主頭に裃をつけた男(久坂玄瑞)・木剣(入江九一)・ただの棒(山縣狂介(有朋))と共に一枚の絵に描かれた一頭の放れ牛と評した。
松下村塾
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萩市

松下村塾内部
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