高杉 晋作 ―概略―


動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
衆目駭然、敢て正視する者なし。
これ我が東行高杉君に非ずや
―伊藤博文―
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下関市産業経済部観光課


1839(天保10)年8月20日、萩城下菊屋横丁に萩藩士高杉小忠太と母道子の長男として生まれ、藩校明倫館・吉田松陰主催の松下村塾・江戸の昌平黌に学ぶ。

1862(文久2)年に幕艦千歳丸で上海へ渡り、アヘン戦争の敗北により欧米諸国の植民地と化しつつある上海の実態や太平天国の乱を目の当たりにし愕然とする。
この上海での体験が後に晋作を討幕へと突き進めて行くこととなる。

同年閏8月江戸帰着以後、異人暗殺計画(中止)、英国公使館焼き討ちと尊王攘夷運動にひた走る。
翌1863(文久3)年、10年の暇を請い剃髪し、東行と号すが僅か3ヶ月足らずで外国船攻撃のため呼び戻され奇兵隊を結成。
1864(元治元)年、京都進撃を主張する来島又兵衛の説得に失敗、脱藩の罪により野山獄へ投ぜられるが、四国連合艦隊の下関砲撃事件勃発により再び呼び戻され、連合艦隊との講和談判にあたる。

その後藩内では再び佐幕派が台頭、身の危険を避け九州に亡命、野村望東尼の平尾山荘に潜伏するが、同12月15日藩論を覆すべく、功山寺で挙兵藩論を討幕に統一、第二次長州征伐による四境戦争では海軍総督を務め勝利するが結核の悪化により、1867(慶応3)年4月13日深夜(命日は14日)、翌年の明治維新を目前に28年のその短くも激しい生涯を閉じる。