功山寺挙兵



一里ゆけば一里の忠            
        二里ゆけば二里の義を尽くす


  
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下関市教育委員会指導課
―ともし火の 影ほそく見る 今宵かな―

連合艦隊との講和条約締結以後、晋作は幕府の第一次長州征伐を恐れた俗論党政府(保守派)による粛清を避け、福岡・平尾山荘の野村望東尼のもとに亡命していたが、この粛清により、武備恭順を主張した井上聞多は重傷を負い、周布政之助も自殺、福原越後・国司信濃・益田右衛門介ら三家老も切腹させられる。
このままでは二度と再び起てなくなると考えた晋作は急遽下関へ戻り、諸隊に決起を促すが、赤根武人・山県狂介らの反対により、賛同は得られなかった。
1864(元治元)年、12月15日夜、晋作と行動を共にすべく雪の功山寺に集まったのは石川小五郎率いる遊撃隊と伊藤俊輔率いる力士隊、僅かに80人余であった。(対する萩の俗論派支配下の武士団は2000人)
功山寺で三条実美ら五クに挙兵を告げると、晋作らは下関新地の萩藩会所を占拠、下関を制圧し、続いて18人の決死隊を編成、三田尻の海軍局に乗り込み軍艦三隻を奪って、下関に回航した。
やがて、奇兵隊はじめ諸隊も参戦、決起軍は3000人に膨れ上がり、大田・絵堂の戦を経て勝利。
これにより、藩論は討幕に統一、時勢は維新に向けて一気に動き始める。
(表)故奇兵隊開闢総督高杉晋作則
   西海一狂生東行墓
   遊撃将軍谷梅之助也
(裏)毛利家恩古臣高杉某嫡子也

これは挙兵直前、晋作が大庭伝七に宛てた手紙の中で自分の死後の墓碑銘を依頼したものです。
ここには明らかに晋作の決死の覚悟が窺えます。

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